日々の選択、日々の愚痴 あ~なんで?

過去、現在、未来の3つの時代の私の選択を考察していきます。

米国の覇権主義への批判

副島隆彦の言論は何でもかんでもオリジナルということはありません。

副島隆彦の前に、たとえば本多勝一が、米国の覇権主義への批判を朝日新聞上で行っています。「アメリカ合州国」とか「戦場の村」とか。それに、60年の安保闘争のときには、溢れるほどの反米文書が登場しました。

また、映画「地獄の黙示録」はマッカーサーと日本が元ネタというのは、副島隆彦とは別系統で書いていた評論家が90年代にいました。

余談ですが、本多勝一の文書はわかりやすく、理解できた時は、脳に快感を覚えます。今度図書館から、ドイツ民主共和国 本多勝一集29 を借りてみます。

確率と哲学

確率論は普通は数学に分類されますが、論理学の一種と考えてもよいです。

確率の意味を考えると、哲学になります。

哲学的な確率論、確率の哲学、ひょっとしたら、私はそれをやる為に神さまに作られたのかもしれない。

ギリース著 「確率の哲学理論」2004年を読んで、もっと調べてみることにします。


キリスト教の本質

キリスト教は、狭い意味での宗教ではない。キリスト教は、唯一絶対神の主、すなわち神の子イエス様とあなたとの、一対一の関係性として定義される。

神さまとの関係性を深めること、それは神さまがここにいらっしゃるという神さまの臨在の近くに末永く寄り添うこと、そして神さまとの出会いを体験し続けること。その結果、「私はここにいていいんだ❗️」という強烈な自己肯定感が得られる。

神さまとの関係性を深める方法は、聖書に書いてあるみことばを読み、黙想すること、そして、折りに触れて神さまに祈ること。他人や問題にフォーカスするのではなく、神さまと与えること(提供すること)にフォーカスすると、神さまから祝福と恵みがいただける。

日本語の「知恵」は面白い言葉である。知る が動詞、恵みが目的語で、知恵とは恵みを知ることなのだ。恵みとは神さまから流れ出ている人間への無尽蔵な愛のことである。知恵の始まりは神さまを知り、神さまを恐れることである(箴言1:7)。神さまに愛されている人は、神さまを愛することができるのである。

カトリックとプロテスタントの違い

カトリック教会には懺悔室がある。

カトリックには洗礼名がある。

カトリックは神父、プロテスタントは牧師。

カトリックで使う聖書には旧約聖書外典アポクリファがある。プロテスタントの教会では、外典を参考にするのはよいが、教義に持ち込んではいけない。

秘蹟サクラメントが、カトリックには7つある。プロテスタントの教会では、サクラメントすなわち聖礼典は洗礼と聖餐式の二つだけ。